ドラマ『僕たちがやりました』 - 残念な最終話
なんだか残念な最終回
今クルー見ていた数少ないドラマである『僕たちがやりました』の最終回が放映されました。
残念なことは色々ありました。
- ヒロイン蓮子役の永野芽郁(17歳)に対して、主人公トビオ役の窪田正孝29歳はもう違和感しかない。
- 窪田正孝の演技がどこを取っても『ラストコップ』以降同じような演技で鼻を突く
まぁ、そういうのはいいんですが、ドラマの最終回が原作の意図を全く理解していないのが残念で仕方がありません。
放映時間の制約があるのでエピソードを端折るとかは仕方ないと思いますが、最終回の完結を変えてどうすんの? しかも、凡庸に。
ここからはネタバレなので、読みたくない方はやめてください。
最終話 ドラマと原作の違い
ドラマでは
事件から10年後。
トビオは事件の影響で定職につけていないようで、バイトで暮らしています。そのバイトも事件の噂が会社で広がるたびにやめて転々とする様子が伺えます。家族からも離れ、一人で狭いアパートに住みコンビニ弁当を食べる毎日。
そして、出所したパイセンと仲間と再会し、何もない自分を実感し「俺の中に残ってるのは、時々死にたくなる自分です」と告白。パイセンから「たまに死にたくなるのが、お前が生きてる証や」と言葉をかけられます(これで生き続けなきゃとか思ったんだろうな)
その後路上で結婚し幸せになっている蓮子に再会し、直後に路上で優しい顔をした市橋の幻を見ます。「トビオ、もう楽になれ。裏切り者が。」とナイフを渡され自分を責めながらナイフで自分を刺し恍惚となった瞬間、それが幻であると気づき打ちひしがれます。
そして「生きる、生き続けなきゃ」。
なんだか前向きな結末です。
原作では
事件から10年後。
トビオはごく普通のサラリーマンになり、結婚し奥さんも妊娠中でそこそこ幸せです。
そして、出所したパイセンと仲間と再会し、何もない自分を実感し「俺の中に残ってるのは、時々死にたくなる自分です」と告白。パイセンから「それで? それよりどんな人生にしたいか考えようや!人間みんなズルいんやから♪」と言葉をかけられます。トビオは「とんでもない底辺(バカ)に救われた」と思いを新たにします。
その後路上で爆破で半身不随になってるヤバ高の元生徒に再会し、直後に路上で体が燃えている地獄から這い上がって来た様な恐ろしい様子の市橋の幻を見ます。「コングラッチネイション! ホラ死ねよ、裏切り者が」とナイフを渡され自分を責めながらナイフで自分を刺した瞬間、それが幻で呆然とします。
場面は変わって、奥さんの入院する産婦人科で生まれたばかりの我が子を抱きます。
そして思うのです、「そこそこを生き抜こうと思う、耐えきれない日が来たらその時は死ねばいいだけの話だろ」と。
奥さんが「どーしょっか? この子の名前」と振ります。
そして、トビオが思い浮かべたのが、まさにパイセンがボタンを押す爆破シーンです。パイセンはこう言って顎でボタンを押したのです。「アゴ乗せ太郎です」
その後、1巻の爆破シーンの回想らしき場面が続きますが、最後に1巻では描かれていなかった口角をあげ喜びの表情を浮かべるトビオのシーンで終わります。
この差はなんだ
原作のこの最終シーンは結構読者の間でも波紋を呼んだようです。意味不明ですから。
しかし、そこをドラマでは汲み取って欲しかった。
ドラマは、苦しい毎日を「それは人を殺した当然の報い」的な感覚なんでしょうか。そして、パイセンの「たまに死にたくなるのが、お前が生きてる証や」という安直なテーマを拾ってしまいます。一方で市橋の様子から、トビオはある種の許しを得ている様な印象を視聴者に与えます。
つまり、「当然の報いを受けるべきである。それでも頑張って生きていけば、きっと許しがある」とでも言いたいのでしょうか。
少なくとも原作の描いているのは、全く異なります。
パイセンとの会話から読み取れるのは、人殺したって生きるんだからとやりたいことをやる「ズルい」人間のありようであると思います。
そしてトビオはずっと「そこそこ」にこだわって来ました。
それは裏を返すと「そこそこでない」自分になることに憧れているのだと取れます。だから、あの最終シーンです。爆破で驚愕の表情を浮かべた後の歓喜の表情は、その後に起こる非日常の「そこそこ」でない日々を思ったのではないかと思います。
しかし、そもそもいくらシリアスなシーンや深刻なストーリーが描かれようと、この作品がギャグ漫画であることを忘れていけません。
それも不謹慎なところで「クスっ」と笑う類のやつです。
だから、子供の名前→「アゴ乗せ太郎」→ 爆破シーンという連想にこそ意味があり、その爆破シーンをより不謹慎にすることにギャグとして意味があるからあのシーンなんです。
深い教訓めいた話ではない、きついギャグなんだ。
と、私は思います。