NHKスペシャル『電子立国日本の自叙伝』を見た

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知り合いが半導体関連の会社に務めることになったので、1991年代にNHKで放映された「電子立国日本の自叙伝」を NHKオンデマンドで久しぶりに見ました。当時結構楽しみに見ていたので懐かしかったです。

1.『電子立国日本の自叙伝』とは

『電子立国日本の自叙伝』は1991年にNHKの「NHKスペシャル」として放映されたドキュメンタリーです。

トランジスタの発明から、集積回路、LSIと進んで1980年代から世界を席巻した日本の半導体産業までの歴史を追ったものです。 当時のキーパーソンのインタービューを交えながら、米国と日本での開発の歴史を交互に描いていく良い作品でした。

個人的に印象深いのは、以下のような点です。

1.1. 歴史的なキーパーソンの貴重なインタビュー

エレクトロニクス産業の黎明期を知るキーパーソンのインタビューが聞ける貴重な映像です。

主な方だけでも以下のような錚々たるメンバーです。

  • ジョン・バーディン(トランジスタの発明者)

  • ロバート・ノイス(Intel社の創業者の一人にして、集積回路の発明に関わる)

  • ジャック・キルビー(集積回路の発明者)

  • 嶋正利さん(日本人にして初期のマクロプロセッサーの開発に関わる)

特にトランジスタ初期に関わった方達はこの直後に鬼籍に入った方も多く、この機会にインタビューしていなければこれだけまとまった当時の逸話が世に残らなかったでしょう。 当時から名前を知る有名な方が次々と登場するので、楽しみでした。

個人的には、嶋正利さんが一番印象的でした。嶋氏は、世界初とも言われるIntel 4004の設計者で8ビット時代のパソコンを支えた Intel8080やザイログ社のZ80の設計者です。そういう知識はあったのですが、当時この映像で初めてご本人が話されているのを拝見できたので感無量でした。

1.2. マイクロプロセッサーの誕生の背景

当時一番驚いたエピソードは、マイクロプロセッサーの誕生の話です。

1960年代後半は日本では電卓戦争でどんどん機能を上げ急速にLSI化していった時代で、ビジコンという日本の会社が処理内容を記憶したROMと論理回路を組んだLSIで電卓を構想しIntelに設計の協業を依頼したそうです。 その時、Intelは興味を示さずエンジニアをコンサルタントとしてアサインしただけで、そのような複雑なLSIを設計できるリソースが社内には当時いなかったそうです。

その時アサインされたテッド・ホフというエンジニアが、LSIをもっと単純化して4ビットの演算のみとすれば単純化できIntelのリソースで設計可能となり、 当初ビジコンがハードウェアで想定してた複雑な処理をROMに書かれたソフトウェアで実現すれば良いというアイディアでした。

これが後の Intel 4004 CPUです。

この設計においてビジコン側の契約の甘さと当時IntelはDRAMに注力しておりそれどこれでなかったという事情で4004 CPUの設計がほとんどなされておらず、 結果としてビジコンの技術者であった嶋正利氏がほとんど論理設計を行ったらしいです。

その後ビジコンはビジネス状況が厳しく Intelのこの 4004の権利を売ったとのことです。勿体無い。

2. 放映の頃には「電子立国日本」の凋落がはじまっていた

この番組が放映された1991年はまだまだ日本のDRAMが強かった時代ですが、 今日あらためて見てみると放映時の1991年の時点ですでにその凋落は予定されていたようにも思えますね。

今日では日本にはDRAMを製造するメーカーは一つも残っていないのですから。

2.1 日米半導体協定

まず1980年代の日米貿易摩擦でDRAMも槍玉に上がった結果、1987年に「日米半導体協定」が結ばれました。

その結果、1992年には日本での外国製半導体シェアを20%以上となりました。

半導体協定がはじまった頃には、半導体不況で米国企業はDRAM事業から撤退を始めていましたし、 日本企業も半導体では赤字となっていましたし、この。日本企業はダンピングと断じられたこの協定は一体何だったんでしょうね。

当時は日本のDRAMがまだまだ強かった時代なので、必然的にプロセッサーなどが米国製に置き換えられて行きました。

プロセッサーは米国の独壇場のように思いがちですが、当時Tronプロジェクトなどもあり国産の独自プロセッサを 作ろうという気運はあったのです。また、1980年代は多くのパソコンに使用されたZ80プロセッサーの セカンドソース [1] を日本の多くの企業が製造していました。16ビット時代を築いたNEC PC-9801シリーズの プロセッサーもNEC独自のIntel互換のV30でした。

こういった領域を米国製品に譲ったことで、今日に繋がる技術領域も米国に依存することになったように思います。 放映以前に国の施策として米国にすでに負けていて、そのダメージが放映時にはだんだん明らかになっていったように思います。

また、「高品質な製品を安く作る」という日本の製品に対して、「安く」の部分が「ダンピング」と叩かれたことで、 コストに対するメーカーや技術者のモチベーションが薄くなったのもこの時代かなと思います。

2.2 上顧客へのこだわりとムーアの法則

この頃の日本のDRAMの顧客はIBMなど大型コンピュータを作るメーカーでした。

なぜなら、そもそも日本の半導体産業は番組でも紹介されている1970年代の官民連携の「超LSI技術研究組合」に端を発しますが、これはLSIを使った次世代コンピュータ構想を進めていたIBMに対応すべく富士通、日立、三菱電機などが参加したもので、大型コンピューターに使用できる超LSI開発を目標にしていたからだと思います。

大型コンピュータへの使用を想定しているので、そこに求められるDRAMの品質仕様も高く設定されており日本の各メーカーは高い製造技術で対応していました。

ところが1980年代の後半からはIBMでさえ大型コンピュータでは苦戦しており、この領域はどんどん衰退していきます。

一方でWindowsが発売されたのが1990年で、この頃私も長年大事に使ってきた8ビットのパソコンを捨てて、台湾製のマザーボードに韓国製のRAMを載せて自分でPCを組んだものです。そして、マザーボードとRAMを毎年のように交互に入れ替え、RAMのサイズは毎回倍増していました。

「ムーアの法則」ですね。しかも、それがコンピュータと共にコンシューマーの世界に降りてビジネスの現場でも普通に 使われる時代が来たのです。

大型コンピュータであれば価格も高く減価償却もありますから、性能が多少落ちても長いスパンで使用されていたと思います。 PCでは3年も使えば性能落ちで、5年使うのはかなりの苦痛でしょう。精々5年も持てば良い程度の品質しか意味がない時代に全体が移行したのです。

でも上顧客の要求もあり、自身に染み付いた品質神話もあり、品質を落とすということに失敗したのでしょう。

番組の中で日本の品質が持ち上げられているのをみると、悲しくなりますね。

2.3 分業できない日本メーカー

今日の半導体の世界ではかなり以前から設計メーカー(Fabless)と製造に特化したメーカー(Foundry)に分かれて分業しています。

番組でも紹介されているよう半導体の製造工場は、大規模で高価な製造装置が必要で莫大な投資が伴います。 分業することで、Fablessは大きな資本なしに特化した領域の先鋭的な設計に専念でき、Foundryは多くの企業から製造を請け負い工場の稼働率を上げることができるメリットがあります。

放映時の1991年でさえ米国はその兆しがありました。

ところが番組内にでてくる企業は、NEC、日立、東芝、三菱電気などです。 設計と製造の分業をしているように思えませんね。まぁ、今では半導体事業自体がなくなったちゃってるのかも知れませんが。

出版などでは編集と印刷と分業が成りなっているのに、なぜ半導体事業ではできなかったんでしょうね。

## まとめ

あらためて見て、1991年当時に見ていた時代の雰囲気も含めて懐かしい気持ちと、 「電子立国」とはとても言えない日本の現状に思いを馳せてしましました。

このビデオを見た後、凋落する半導体産業の真っ只中にいた湯之上隆氏の『[日本「半導体」敗戦](https://amzn.to/3FnUTBs)』を読んでみるとその後の半導体産業の状況がよくわかると思います。

Footnotes

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